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事実を隠蔽・捏造しているのは誰か

――二次文献の利用と「ドイツ歴史社会学」のプログラム

森川剛光

2004年2月22日

 

 

 先日1月24日のこのコーナーに発表されたメールでは、私は内在的にいいたいことは折原氏の『ヴェーバー学のすすめ』でほぼ出てしまったという趣旨を述べた。しかし、このエッセイでは一点だけ補足することを試みる。内容的には大幅にKruse 1999によっており、あまり学術上のオリジナリティはないかもしれない。またある程度の研究者であれば、むしろ共通の常識に属することであろうから、発表するのが憚られる程度の内容である。(従って本エッセイを何らかの学術的な寄与と見なされることは筆者の本意ではない)。念のために断っておくが、筆者は「ヴェーバー研究者」と自己了解しているわけではない。(実際、直接ヴェーバーにはかかわらない研究も行っている)。ましてやヴェーバーやヴェーバー学の権威を守ろうなどという意図はさらさら無い。また筆者は折原浩氏と2004220日現在直接の面識はないので、「先生」の一大事に「いざ鎌倉」と加勢するなどといった意図も毛頭ない。

 以下のエッセイが意味を持つとすれば、それは権威を壊したとうそぶく人間の内部にあるのは、実際には――世界的な大発見だとほらを吹き、政治的な賞を受けることで――単に権威に成り代わろうとする虚栄心であり、その過程で不都合な事実――この場合は学説史的事実――を隠蔽もしくは無視しているということを指摘することで、彼が倒した(と主張する)権威の像(具体的には権威の性格的特徴付け)が実は自己自身の投影に過ぎないことを示すことにある。

 

 

 羽入辰郎の『マックス・ヴェーバーの犯罪』では、ヴェーバーが『倫理』論文で一次文献を参照しなかったことが論証され、「ヴェーバー詐欺師説」が主張されている。それに対する折原の論駁でも「現実の経験的研究者は、規範的格率のみでなく、研究上の経済という合目的性の格率にも従い、両者のせめぎ合いのなかで仕事を進めているからである」(折原2003: 85)と述べているが、しかし、「一次資料が一般に最善であることには、異論はない」と認めている。このことはヴェーバーも実践的に可能であれば、一次文献にあたった方がよかったということである。

 

 しかしながら、ヴェーバーの業績の大部分が一次文献よりもむしろ二次文献に依存したものであることは、羽入書の指摘以前から知られたことであった。そしてそれはヴェーバーに限らず1920年代からの「ドイツ歴史社会学」に共通に見られたことである。(ここで「ドイツ歴史社会学」という集合名は、Kruse 1999から借用している。マックス・ヴェーバーが自身の研究プログラムをこの様に呼んだわけではない)。ヴェーバーの他に、この「ドイツ歴史社会学」の代表的論者(作品)には、ヴェルナー・ゾンバルト(『近代資本主義』)、フランツ・オッペンハイマー(『社会学体系』)、アルフレート・ヴェーバー(『近代国家の危機』、『文化社会学としての文化史』)、カール・マンハイム(『保守的思考』、『イデオロギーとユートピア』)、エドワルド・ハイマン(『資本主義の社会理論』)アルフレート・フォン・マルティン(『ルネッサンスの社会学』)、ノルベルト・エリアス(『文明の過程』)、アルフレート・ミュラー=アルマック(『経済様式の系譜学』、『神なき世紀』)、カール・ポランニー(『大転換』)、ハンス・フライヤー(『現在の理論』)、アレクサンダー・リュストフ(『現代の位置』)が挙げられる。(Kruse 1999: 12-13)

 

 この様な「ドイツ歴史社会学」の諸業績は、遅くとも1950年代までのものであり、その後ドイツで「より実証的」で「経験的」(あるいは「経験主義的」)な社会研究がアカデミーの中心となっていくにつれ、廃れていった。また、新しい「より実証的」で「経験的」な社会学派であるケルン学派の代表者ルネ・ケーニヒは、それ以前の主に二次資料に基づいた社会学は経験科学ではなく、「歴史哲学および社会哲学」に過ぎないとして卑下した。しかしながら、フォルカー・クルーゼのまとめによれば、「ドイツ歴史社会学」とケルン学派はそれぞれ異なった社会学の自己理解とアイデンティティをもっており、それぞれの背後には異なったパラダイムが存在しているのである。つまり、この二つの異なったパラダイム、異なった「経験」の理解、異なった「理論の存在論的位置価」、異なった「認識」の理解、異なった「科学の目標」のために、ヴェーバーが「現実科学」のプログラムとして学問的に正当化した「ドイツ歴史社会学」もケーニヒの目には「歴史哲学および社会哲学」に過ぎないものに映ってしまう。ちなみにいうとケーニヒのプログラムの哲学的支柱となっているのは、ハンス・アルバートの批判的合理主義である。

 「歴史社会学」はケーニヒやアルバートの意味での「経験的な社会研究empirische Sozialforschung」ではない。しかしながらそれでも経験的である。その経験の素材は歴史的なものであり、かつ「二次的に経験的なもの」であっても。(Kruse, 176-177)。「二次的に経験的である」というのは、他の歴史科学的諸学科の成果を独自に総合することで新しい認識をもたらすということである。橋本がいうように「アカデミックな歴家の観点からすれば、『倫理』の中心テーゼは、あまりにも巨視的なスケッチに過ぎず、他の歴史説明を否定するだけの価値を持たないように見える」のである。(橋本 2004: 15-16)

 だがアカデミックで実証的な歴史学を代表するドイツの歴史家のひとりであるヒンツェはヴェーバーの『宗教社会学論集』に対して、その「実証性」の欠如にもかかわらず、次のように述べている(Hintze 1964)。「異国の宗教体系の分析が常に、ヨーロッパの諸現象、諸状態、諸連関への比較の素材を展開するという科学上の目的に関して行われている」こと、そして「一つの宗教体系から、日常生活の生活態度とそれとともに経済を方法的に造形する倫理的衝動が飛び出しているかどうか、あるいは、経済生活の方法的合理化を妨害するその逆の動機がそこから生じてないかどうか」という問題が「終始変わらず、関心の中心にあるということ」が、研究の方向付けを統制しながら、「この世界を包括する作品の内的統一」をなしている。(Hintze 1964: 127

 

ヒンツェは次のように続ける。まるでわざわざヘブライ語の原典を対照する羽入の批判を予期していたかのように。

 

「著者は中国の言葉もインドの言葉も知らないし、ヘブライ語も、自分自身で認めているように、十分な知識がないので、この試みにそもそもある種の誤解をもって立ち向かう批判者たちには事欠かないであろう。ここで第一に問題になっているのが宗教史上の作品であれば、批判者たちは正当であろう。しかし、ここで問題になっているのは、比較社会学上の研究である。つまり、そこで問題になっているのは、宗教体系それ自体の分析ではない。そうではなくて、著者が素材に取り組む視点と問題設定、それは東洋学者の専門家の観念圏・関心圏には少なくともこれまで全く疎遠なものであった、この視点と問題設定が問題なのである。ここで追求されているのは、まだ決してひとりの東洋学者によってはなされなかったし、試みられもしなかった。いうまでもなく、中国学者あるいはインド学者にはそれに必要なカテゴリーがかけている。けれどもここで問題になっているのは、一つの本当に科学的に基礎づけられた社会学には避けて通ることのできない課題である。私が思うに、学会は著者にもっとも暖かい感謝を捧げる義務があろう。著者が、彼自身以上に気まずく感じざるを得ないあらゆる疑念と困難にもかかわらず、それにもかかわらずひるむことのない研究者の勇気とあくことのない勤勉で、とてつもなく巨大な課題に取りかかり、成し遂げたことに対してである」(Hintze 1964: 128)。

 

この二次文献に主に依拠する方法をヴェーバー自身は、人間の労働力には限界があるという――すでに冒頭で引用した折原 2003が指摘している――研究上の合目的性の理由の外に次のようにも正当化している。

 

「少なくとも事情に通じていない人々には、本書における叙述の意義を過大評価しないように警告しておかねばなるまい。中国研究者、インド研究者、セム語研究者、エジプト研究者といった人々は、もちろん、そこに何らの新しい事実も発見しないであろう。願うところはただ、本質的な事柄で、事実認識として誤っていると彼らが判断せざるを得ないようにものがないことである。が、そうした理想に、非専門家として可能な限り接近しようという試みがどの程度まで成功しているか、それさえ著者としては知るよしもない。翻訳を利用し、そのうえ碑文・文書・文献などの資料の利用や評価の仕方について、自分ではその価値に独自な判断を下しかねるどころか、しばしば激しい論争さえあるような、そうした専門文献を調べる以外に方法のない者が、自分の仕事の価値について極めて謙虚であるべきことは言わずして明らかであろう。。したがって以下の諸論文、とりわけアジアにかんする部分は、全く暫定的な性格のものだということにならざるをえない。最終的な判断は、専門家のみが下しうるはずである。ただ、分かり切ったことではあるが、この様な特殊な目標を持ち、この様な特殊な視点からなされた専門家の叙述が今までなかったということが、そもそも私がこれらの論文を書いた唯一の理由だといってよかろう」(RS I: 13[『論選』二四二五頁])。

 

 

インドの言葉や、中国語あるいはヘブライ語はともかく、ヨーロッパの文献を扱っただけの『倫理』論文では、一次文献にあたることは必須だと反論がなされるかもしれない。しかし、ヒンツェの言葉は中国学者やインド学者、東洋学者という代わりに、歴史家、聖書学者、宗教学者といってみれば、『倫理』にもそのまま当てはまる。実際、折原 (2003: 34-35)が指摘しているように、『倫理』論文でもヴェーバーは次のようにはっきりと断っているのである。

 

「以下の簡単な記述は、教理の問題にかんする限り、すべて教会史・教理史の文献、したがって、「セカンドハンド」によるもので、その点では全く「オリジナリティー」を主張するものではないことは、断るものでもなかろう。。が、幾十年にわたる真摯な神学研究を全く省みずに、この研究に導かれつつ資料を理解しようとしないなら、それは非常な不遜であろう。私はただ、記述を簡単にしなければならなかったため、説明が不正確にならなかったこと、少なくとも顕著な誤謬に陥らなかったことを、願う外はない。この記述のうち、神学の主要文献に通じている人々にとっても僅かに「新しい」点は、すべてを我々に重要な観点から見たという点のみであろう」(RS I: 86-87 [梶山訳一七二頁以下]。ついでにいえば、「ドイツの図書館は、財政が豊かでないので、「地方」に住むものは重要な資料や論文を、ベルリンその他の大図書館から僅かの期間借り受ける外はない」ともヴェーバーは述べている)。

 

 もう明らかになったと思うが、『倫理』を含めたヴェーバーの宗教社会学上の業績の生命は「視点」と「問題設定」の新しさであり、それは一次文献に基づいた研究では決して実現できないものなのである(Kruse, 183)。そして二次文献に基づいた研究を単なるディレッタントの作品に貶めないものが視点と問題の統一と、そこから一貫して方法的に統制された叙述なのである。

 

 同様に弟のアルフレート・ウェーバーも『文化社会学としての文化史』で次のように述べている。「これは歴史家ではなく、社会学者の手によるものである」。「これが意味するのは」何か「純粋に事実的なもの」というよりも、「より大きな諸連関にとっての特定の事実の解釈とその重みなのである」(Weber, A. 1935: 419; cf. Kruse 1999: 185)

 

 Kruseは外にもゾンバルトやオッペンハイマーの例を挙げ、次のようにまとめる(184-187)。ドイツ歴史社会学は(論理的な意味で)、五〇年代以降特に経験的な社会研究で支配的になった経験主義的な科学理解をしていなかった。ドイツ歴史社会学は認識論的にはカントに定位しており、これが意味するのは、経験とは直接感性的に接近できるものではなく、悟性の思惟の力により把捉されるということである。科学とは「経験的な研究empirische Forschung」ではなく、特にヴェーバーの表現を用いれば、「経験的現実の思惟による整序」denkende Ordnung der empirischen Wirklichkeit(WL, 156)なのである。極論をいえば、すべて二次資料に依拠してもある特定の新しい視点からその資料を統一的に整序し、叙述し、新しい視野を開けばそれは科学的業績として全く正当である。ドイツ歴史社会学自体、一九世紀後半以降の諸科学の専門分化、断片化、実証主義化の潮流、それによって引き起こされた文化の危機に対する、一つの新しい総合の学としての試みであった。ヴァイスの言葉を借りれば、ヴェーバーにおいて社会学とは独立した学科ではなく、「歴史的文化科学および歴史的社会科学」の理論的部分である(Weiss 1992: 172-175)。それは(一次文献で作業を行う)歴史的諸科学の存立と学際的分業を前提にし、その成果(したがって二次文献!)を特定の文化価値から理論的に総合するという課題をもち、そのことによって専門化・断片化した知を再度意味づけ、文化価値を媒介にして生活世界に再結合する。

 

 

 羽入書が示したのは、ヴェーバーが一次文献を用いていなかったことだけである。そしてその文献学的に厳密な部分を「ヴェーバーは詐欺師」騒ぎ立てることとレトリックでつなぎ合わせ、独仏学術誌掲載のエピソードや日独の学者との対話などのエピソードで権威主義的に補強することで成り立っている。(当たり前だが、この様なエピソードやレトリックは学術的な論証の価値をもたない。「妻の発見」のエピソードもそうである)。

 しかしながら、実証主義的な一次資料フェティシズムに毒された目から自らを解放し、ヴェーバーを当時の「歴史社会学」のプログラムという文脈においてみれば、ヴェーバーが一次資料を用いていなかったことはなんの問題にもならない。ましてや折原 2003が示したように、論文全体の論証構造とはかかわらない箇所においてである。

 それどころか、一次資料を用いていないことをヴェーバーは自覚していたし、ヒンツェやケーニヒの例が示すように、ヴェーバー以降の学者たちも全く承知していた。羽入流のエピソード主義で日本の例を付け加えるとすれば、あるオーストリア学派の研究者の方念のために断っておくが橋本努氏ではない−−は筆者に「ヴェーバーが二次文献を用いていたっていうのは周知のことじゃない。何を今更、大騒ぎしているの?むしろ素人目には、二次文献を上手く使った研究っていう風に見えるけど」といわれた。ゆえに『倫理』論文の四箇所という特定のコンテクストでは羽入の発見、「ヴェーバーが一次資料を用いていなかった」ことは、世界初の発見かもしれないが、ヴェーバーの業績全体としては既知の事実であり、それをレトリックで粉飾しているだけである。そして二次資料中心の研究という事実にもかかわらず、ヴェーバーの学問的業績の意義は認められてきた。というのは学問上の著作の意義は、新しい視点、問題設定を示しているかどうかだからである。その際には新しい資料を用いたかどうかはさしあたっては問題にならない。古いすでに既知の資料も新しい視点から解釈を施せば全く新しい意味と生命を受け取るからである。(その意味では羽入書も既知の事実を新たな視点から見たものといえるかもしれない。但し同書が更なる研究に対して開く地平は著しく貧困であることは否定しようがない)。

 ヴェーバーとは異なる科学理解によって、ヴェーバーのプログラムに賛意を表せないとしても、ケーニヒはそれと異なる社会学のプログラムを追求することで多くの弟子を育てたし、かなりの業績を残した。(ケーニヒの業績については、さしあたりwww.uni-koeln.de/rkg/)羽入氏はそのようなこともせず、ヴェーバーが一次資料を用いなかったことを示しただけで、鬼の首でも取ったかのように振る舞っている。(それが如何に滑稽なことか自分で気づかないのだから哀れでさえある)。それどころか自分の素朴実在論を自明の前提と見なし、解釈から離れた「事実それ自体」があるように語り、なぜ一次資料を用いるべきなのかを科学論的認識論的に積極的に根拠づけようともしない。またすでに示したようにヴェーバーの業績の多くが二次文献の上に成り立っているにもかかわらず、そしてそれにもかかわらず評価されてきたという事実を理解することなく、隠蔽し、ヴェーバーの業績が評価されてきたという事実を「ヴェーバーの魔術」という言葉でしか説明できなくなっている。この「魔術」という言葉を羽入氏は比喩のつもりで用いているのだろうが、しかし逆に――彼の意図とは逆に――この様な言葉を用いることは、何故ヴェーバーが評価されてきたのかを羽入氏が合理的に説明できないことを端的に示している。「魔術」と「詐欺」は羽入氏が自分自身で合理的に説明・理解できないことを無理矢理説明づけ、自己の限界を糊塗するためのDeus ex machina、もっといえば「でっち上げ」なのである。その証拠にヴェーバーが「ウソ」をつかねばならなかった動機を羽入書はどこにおいても示していない(し、示せなかった)。「犯罪の立証」としてはこれでは不十分である。(ヴェーバーが例えば、政治上・あるいはその他の理由から、「プロテスタンティズム」と「資本主義」の間の連関をうそをついてまで立証する必要があったということを羽入書が示していたら、勿論、話は別であった)。

 

 さて、最後に事実を確認しよう。

1.ヴェーバーの研究が主に二次文献に基づいていることは、ヴェーバー自身も自覚しており(だからこそヴェーバーは「現在の一般的な版」とわざわざ注記までした)、またヴェーバーの業績全体としてみれば、これまで「周知の事実」であった(し、研究プログラム上正当化可能である)。

2.従って、羽入氏の「発見」は『倫理』論文の四箇所に限定すれば、「発見」の功績を羽入氏に帰することもできるが、御本人が自画自賛するほど「世界的な発見」とはいえない。また、自画自賛を繰り返したからといって、そのことで「世界的な発見」になるわけでもない。

3.ヴェーバーに対する評価はその業績が二次文献に基づいていることを認めた上でなされてきたのだから、羽入氏の「発見」でヴェーバーの評価が下がることはない。

4.「ヴェーバー詐欺師説」を主張するために、羽入氏は1.の事実を隠蔽した。1.の系である2.も隠蔽し、自分の発見が「世界的な大発見」であることをうそぶく=でっち上げるためである。

 

ちなみに「でっち上げ」に基づいた虚偽告発は現行の刑法では犯罪である。従って、ミネルヴァ書房と羽入辰郎氏には次刷から同書の題名を『羽入辰郎の犯罪――私はいかにして事実を隠蔽し、ウソの上塗りで固め、賞までもらったか』とすることを勧める。

 

 

 

Hintze, Otto 1964: Max Webers Religionssoziologie, in: Soziologie und Geschichte, Göttingen, S.126-134.

Kruse, Volker 1999: Geschichtes- und Sozialphilosophie oder Wirklichkeitswissenschaft? , Frankfurt.

Weber, Alfred 1935: Kulturgeschichte als Kultursoziologie, Leiden.

Weber, Max 1920: Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie, Bd.1, Tübingen.[梶山力訳・安藤英治編『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』未来社、1994年; 大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』みすず書房、1972年]

Ders. 1968: Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, Tübingen.

Weiß, Johannes 1992: Max Webers Grundlegung der Soziologie, 2. Aufl., München/ London/ New York/ Paris.

 

羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』ミネルヴァ書房、2002

橋本努「ウェーバーは罪を犯したのか——羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」『未来』2004.1. No.448, pp.8-17.

折原浩『ヴェーバー学のすすめ』未来社、2003

 

 

(2004年2月20日脱稿)

 

注記・本稿脱稿時点で、折原浩氏の「応答」は未読。また、荒川敏彦氏には草稿段階でコメントを頂いたので、感謝したい。

 

(2004年2月22日修正、注記追加)